「あの頃 親たちも青春していた」

- 私にとっての山吹会 - 元山吹会会長 清水祺允

「あの頃 親たちも青春していた」

山吹高校の入学式、校長先生の「以上○名入学を許可します」の言葉に、ほっと肩の力が抜けた。息子は、高校二年の十二月、喫煙で私立高校を自主退学した。
色々あったが、無学年・単位制という山吹高校の存在を知り、やっと復学が叶った瞬間であった。式の後、「やまぶき会」の説明を受け、例会に参加するようになった。 部屋一杯に集まった保護者の方々のお話を聴くうちに、不幸な親と沈んでいた気持ちが次第に楽になっていくのを感じた。



開校されて七年、山吹高校にPTAという組織はなく、自主的に集まった保護者による会「やまぶき会」が学校とのパイプ役で、活動はあくまで学校側の好意で、教室の使用許可、印刷物の配布など気を使う事が多かった。組織は委員会制で、組織の長を代表委員と呼んでいた。



息子は2年目に入り、嬉々として通学はしているものの、取得単位は一向に増えず、熱心にバレー部に顔を出し、夜は学校前のコンビニの副店長を務める有様、将来への不安な心を、「やまぶき会」の人々と語り合い、慰め合っていた。



校長先生が変わり、会の組織も変わって、会長に選ばれた。新校長との懇談を何度も重ね、日曜日に校長、副校長、生活指導、相談室の先生の参加を得て、バスハイクを企画した。往復のバスの中、昼食を挟んでの相談会が好評で、五月の総会の参加も次第に増え、ご夫婦ご一緒の参加も幾組か、委員を引き受ける方も多く、会費の納入者も倍増した。



息子は入学して既に三年、卒業する気配皆無、がバレーボール部はチームワークも良く、何と八月の全国大会の決勝戦へ駒を進めた。駒沢体育館に、北は北海道、南は沖縄まで八十校の熱戦、観客席には、応援の垂れ幕も下がった、が吾が高校には無い、メガホンを叩いての応援、顧問の先生から「優勝したら幕ですね」の言葉、約束どおり、やまぶき会の横断幕を皆で贈ることが出来た。



山吹高校には、六年在籍する事ができる、五年目に入った時、校長先生がコンビニで働く息子に「もうそろそろいいんじゃない」と握り飯を買いに行ったついでに言い置きして下さったりと・・・・・。



創立十周年、パネラーとして席に着いた。相談室の先生からお聞きした「自分が変わらなければ、他人を変える事は出来ない」・・・この言葉を一生かみしめて行こうと考えている。



五年かかって卒業した息子は家業を継ぎ、山吹の仲間とは、お互いに結婚式に呼び合っている。私たちも「おしゃべり99」という会をつくり、そう親たちの青春の思い出を語り合っている。



清水祺允氏は平成8年~平成11年度(平成12年5月の総会まで)、
山吹会会長をお務め頂いた方です。